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ぶろぐ

理転もしたけれど、わたしはげんきです。

【映画】「バケモノの子」の主題はなにか:批評と感想

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www.bakemono-no-ko.jp

 

公式には「冒険活劇」という括りですが、その感想を述べる多くの人が「親子の絆・父子関係」が主題であると述べています。しかし、細田守監督の真意はそこに留まらないと私は思います。細田守監督は宮崎駿監督と同様「言わずして伝える」タイプの監督という認識なので、きっとこの映画にも色々とメッセージが隠されていると思い、できるだけ冷静に鑑賞するよう努めました。映画批評・分析についてはど素人ですが、多分こうかな・・・くらいの思いは得たので、私なりの分析結果を以下で述べます。

 

主題1:マイノリティであることを受け入れて生きる強さ

 

この主題は、映画タイトルから抱く印象そのものです。 「バケモノの子(だけど、人間)」というのは、人間社会でもバケモノ社会でもマイノリティとして扱われます。九太はまさにその存在であったわけですが、この点を含め、次の観点から世間一般からみると数少ない存在(マイノリティ)としての九太の人物像が浮かび上がります。

① 生みの親は人間だが、成長期・思春期はバケモノに育てられる
② バケモノ社会にいるほぼ唯一の人間である
③ 人間社会での義務教育を十分受けずに、人間社会に戻る

人間でもなくバケモノでもなく、そして、そのどちらの社会にも所属しにくい存在であることがわかります。

 

マイノリティの問題というのは、絶対数が少ないことよりも、当事者が自分の居場所を見つけられない実感にその本質があると考えます。自分と同じ心境の人がいない、ゆえに、相談できない・どうすれば良いかわからない・気持ちの整理ができないという辛さをマイノリティは有していると考えます。

 

物語序盤の九太の気持ちは正にこれに類するものであったと思われます。しかし、渋天街の中で熊徹というマイノリティのロールモデルを彼は見つけます(ロールモデルに関する論考は主題2)。熊徹の身につけた戦闘スタイルは完全に彼の我流であることが言及されています。また、徳を積んで弟子を従えることが尊いとされる渋天街において、彼はひたすら強くなることを求めます。この点において、熊徹もまたマイノリティなわけですが、彼がそれを意に介する様子はありません。彼の姿勢から伺えるのは「マイノリティとして生きないと自分らしさを保てない。だから、マイノリティとしての自分を受け入れる。」という思いです。

 

このような師匠のもとで育った九太が「マイノリティであることを受け入れて生きる」ことを決意するのは、クライマックスであると考えます。熊徹という剣を胸に宿す場面ですが、そこで疑問に思うのは、九太はなぜ熊徹を胸に宿したことで強くなれたのかということです。「バケモノの子」としての自分を完全に受け入れたから、つまり、熊徹に育てられたという人間社会におけるマイノリティとしての自分を受け入れたからではないでしょうか。熊徹という剣を胸に刺すシーンは、九太のこのような決意を表現していると思われます。

 

最後のシーンで、九太は大検試験を受けることを明言しています。つまり、これから先は普通の人間として生きることを決意しているわけですが、人間社会でのマイノリティとしての自分を受け入れて得た強さがあるからこそ、改めてこの決意表明ができたのだと思います。

 

主題2:ロールモデルの重要性(教育にはなにが必要か)

 

主題1の中でも述べましたが、ロールモデルを見つける重要性をこの物語は問うていると考えます。それを考え始めたのは、物語の鍵である「白鯨」について思いを巡らしていたときです。

 

九太が17歳で人間社会に戻った後に映るのは、図書館で白鯨に手を伸ばすシーンです。また、一朗太が化けるのも白鯨です。これだけ取り上げておいて何もメッセージを隠していないのは細田守監督のことを考えるとあり得ないので、まずは「白鯨」という作品自体の特徴を調べてみました。

白鯨(Wikipediaより)

本書の大半は筋を追うことよりも、鯨に関する科学的な叙述や、作者が捕鯨船に乗船して体験した捕鯨技術の描写に費やされ、当時の捕鯨に関する生きた資料となっている。

 ここから、白鯨は単なる文学ではなく、科学・技術も学べる作品であることがわかります。実際、白鯨を読破することを目的にして(?)ヒロインの楓と勉強をする場面において、文学とはほど遠い分野の参考書が平積みされている描写があります。そこからも、白鯨から勉強できることは多岐に渡ることがうかがえます。九太は白鯨を読みながら勉強を重ね、義務教育をまともに受けなかったにも関わらず、最終的には大検試験を受けることを決意しました。

 

このように物語が展開する中で、細田守監督が託したメッセージとは何でしょうか。それは、こどもの教育に対するものであると思います。もう少し具体的にすると、「9歳~17歳頃まで(九太が渋天街にいた期間)は、勉強することよりも自分にとってのロールモデルを見つけ、そこに憧れを抱いて学び努力することが大切である。勉強など大学に入ってからでもいい。」そのような思いが私の胸中に浮かんできました。

 

今は、ロールモデルを見つけるのが難しい時代だと思います。情報はすぐ手に入りますが、そこから自分が進みたい方向を見定めるのは容易ではありません。一昔前はそもそも情報の入手が難しかったので、限られた選択肢からでもロールモデルを無理やり選べていたかもしれませんが、世界が広がった現代では選択肢が多すぎて自分を見失いやすい状況が生じている気がします。

 

このような状況下において、こどもがロールモデルを見つけることなく単に勉強することは全く無意味だと、細田守監督は言いたかったのだと考えます。それを示唆する描写もあります。ヒロインの楓が住居からこっそり抜け出すシーンですが、楓の両親は磨りガラスの向こう側に映し出されるだけで顔や表情は映し出されません。なぜ、わざわざ磨りガラスの描写にしたのか。楓にとって、両親は自身のロールモデルになれていないことを表現しているのではないでしょうか。だからこそ、進学校で勉強して大学に行って就職して・・・という話をする場面(自身の悩みを吐露する場面)において、楓の表情は暗かったのだと考えられます。楓というヒロインは、現代の一般的なこどもを象徴しています。勉強した先になにがあるのか・・・それを見出せないために勉強へのモチベーションが低いこどもは多いと思います。

 

一方、九太は義務教育を受けるはずの期間において熊徹というロールモデルを渋天街で見つけ、そこへ近付き、そして追い越すための努力を積み重ねました。ロールモデルを追い越した段階において九太は十分な精神的成長を達成し、自身の将来を自身で決められるようになります。その状態になってから勉強を始めたとしても、きっとその勉強に意味を見出して努力を重ねることはできると思います。だからこそ、ラストシーンにおいて九太は大検受験を迷いなく明言するのです。

 

 

この物語において、「白鯨」「大検」がずっと胸に引っかかるワードでした。物語の展開から考えるとさほど重要ではないはずなのに、なぜか要所で登場してくる。今回このように言葉をまとめた中で、私自身の中にあったモヤモヤを解消できたように思います。やはり、細田守監督は「言わずして伝える」のだなと一人で納得しました。