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ぶろぐ

理転もしたけれど、わたしはげんきです。

積読記:人と「機械」をつなぐデザイン(佐倉統)【引用】

今週のお題「読書の夏」

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人と「機械」をつなぐデザイン

人と「機械」をつなぐデザイン

 

 

本書の中で特に印象的だった箇所を、以下に引用させていただきます。

 

17ページ

「二〇〇ミリ秒(〇.二秒)の壁」とよく言われていて、二〇〇ミリ秒以上ずれると、一体感はもう失われてしまいます。アクションを起こしてフィードバックが返ってくるのに二〇〇ミリ秒以上あると、それは自分とは別のものになってしまうのです。

 

18ページ

複雑さや不思議さは、機械ではなくて人のほうに潜んでいる。そういうことを少しずつでも取り出して役立たせたいというのが、ヒューマンインターフェースの本質ではないかと思います。

 

54ページ

「わかりやすく伝える」ための言葉は、しばしば複雑さや精密さを犠牲にする。でもそれは、スマホのしくみを全て知ろうとしない方がかえって使いやすいのと同じで、複雑なものと人との関係を良好にするための言葉のデザインなのだと理解している。

 

60ページ

大阪大学の浅田稔さんなんかは、アメリカは軍事があるから、誰でも簡単に使えるようなインターフェースやユーザビリティがすごく発達していると言っていますね。だからルンバもその一例だと思うんです。あれはもともと地雷探査技術ですよね。

 

92-93ページ

この一つの事例(義足の適合が生成される過程)においては、両者の相互行為において、(1)「作る人」と「使う人」のそれぞれが共通の用語を獲得していること、(2)用語によって表現される使う人の身体感覚と専門知の内実の対応を、専門知を持つ「作る人」が「使う人」のことばで確認をしていること、(3)そして機械に生じる「課題」の解決は使う人の身体感覚に沿って行われていること、が観察された。また、(4)使う人の身体経験に重きを置いた会話の中で、専門知を持つ「作る人」が、同時に所有する身体に対する力を表現の上では縮小してみせている、ということも、「機械と人の調和」に関連して、今回の事例において観察された重要な点として指摘しておきたい。

 

117ページ

義足が身体に適合していない「不適合」という状態の中には、実際に身体を傷付ける状態と、義足が適合しているという「身体感覚」を本人が持てない、という状態とが含まれる。

 

138-139ページ

大学で講義するときには、ヒューマノイドは三つあると言ってきました。
一つ目は、「機械を使う機械(ヒューマノイド)」という位置づけです。人間が使う道具を機械が使う場合や人間がいる環境で動くような機械を追求すると結局人型になるから、ヒューマノイドにはそういう「ユニバーサルな(どんな環境でも使える)機械」という側面があると考えられます。
二つ目は、「マイルストーン」です。例えば、自動車・飛行機・ロケットのように、その時代ごとの粋を集めた代表的な技術があって、その技術を突き詰めていくと周辺技術も進展するという現象があります。そして現代はロボット、特にヒューマノイドみたいなものがそれに当たっていて、たとえヒューマノイドが実現しなくても、周辺技術は発展していくことになるのでしょう。
三つ目は、「人を知る」という目的です。つまり、ヒューマノイドを作ろうとして、どうしてもクリアできないところがあれば、それがわかっていないところだというアプローチで人への理解を深めていくというものです。ヒューマノイド研究をやっていると、自然と人を研究するようになるんですよね。

 

228ページ

フォロワーは製品の真似はできる。そして、リニアモデルによって確実にスペックの高いものは作れる。しかし、「使いやすさ」のような「心地よさ」「共感」という感覚的なものは予測する理論や法則がないので、真似すらおぼつかない。その結果、「競合より高性能で低コスト」を説明立証可能な良いものだと考えるようになる。これがフォロワーの行動モデルである。

 

243ページ

我々がロボットを社会の一員として、つまり、人間と全く同じ道徳的主体として見なすようなことになるようならば、ロボットは、人間と同じような「心」を持つにいたったと言えるだろう。しかし、ロボットに道徳的地位を与えること自体が不可能なことであるように思われる。そもそも人間がロボットを開発し、利用する動機は、人間の作業の一部をロボットに肩代わりしてもらう、ということにある。もしロボットが人間と全く同じ道徳的地位を持ったならば、そのような肩代わりは難しくなるだろう。人間が人間と全く同じ道徳的地位を持ったロボットを作り出す動機を欠いている。

 

246ページ

人間の振る舞いがデジタル・コンピュータのヒューリスティック・プログラムによって形式化できるはずだという、心理学的、認識論的前提の支持者たちは、現段階において少なくともコンピュータは明らかに身体をもっていないのだから、人間が身体をもっているという事実を無視した知的振る舞いの理論を立てざるを得ない。身体なしで済ますことができると考えるとき、これらの思想家たちはまたもや、身体を知性や理性の妨げになると見なしてきたプラトンからデカルトに至る伝統に従っているのである。(中略)どれほど巧妙な機械が組み立てられようと、人間を機械から区別するものは、切り離された、普遍的な、非物質的精神ではなく、入り組んだ、ある状況に置かれている、物質的身体であるということである。(ドレイファス、一九九二、四〇一~四〇二頁)