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ぶろぐ

理転もしたけれど、わたしはげんきです。

積読記:弱いロボット(岡田美智男)

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弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)

弱いロボット (シリーズ ケアをひらく)

 


Sociable Trash Box - ICD Lab, Toyohashi ...

 

鉄腕アトムドラえもん機動戦士ガンダム・・・ロボットという言葉から連想されるのは、今も昔も「二足自立歩行をおこない、高度な知力・腕力を有する存在」であると思います。本書の言葉を借りて説明すると、これらは「足し算」のロボットです。それでは、「引き算」のロボットはないのだろうか。そんな疑問を解決するための指針を提供しているのが本書です(掛け算のロボット・割り算のロボットってなんだろう・・・と考えるのも楽しいかも)。

 

技術進展によって「足し算」のロボットが現実的になっている現状は否定できません。そして、遠い将来には彼らがロボットの主流として日常生活に浸透するでしょう。しかし、彼らに対する期待が先行しているがために、それが裏切られる事態を目にしては「あぁー、やっぱりダメか。」となっているのが現状だと思います。ガートナーのハイプサイクルに見られるように、あらゆる革新技術には「過度の期待」時期があります。しかし、ロボット・ガジェット好きとしては、期待と現状のギャップがとても辛いです。だからこそ、「弱いロボット」という一見矛盾する概念に強く惹きつけられました。彼らのような「引き算」のロボットこそが、「足し算」のロボットが進展するまでの主流になり得ると思うのです。

 

つい最近、この話につながりそうな記事を見つけたので、ここで紹介します。Pepperもついに一般販売されたということで、なんだかんだ慣れれば可愛く見えると思うのですが、パッと見ではとても可愛く見えない(しかし可愛い)ルンバとの比較について書かれています(いつの間にか会員限定記事になったようですが)。

itpro.nikkeibp.co.jp

 

本書はとても平易な文章であるため、専門外の人でも楽しく読破できます。全てのコンテンツが興味深かったのですが、特におもしろいと感じた箇所をここに残します。

 

投機的な振る舞いとグランディング

 著者の岡田先生は生態心理学にも精通されているそうで、「歩行」という行為に対する見解がとても興味深いと感じました。アフォーダンスについては別稿に譲りますが、人間が歩行をする際に無自覚的におこなっている環境との対話について触れられています。ロボット開発との関連としては、「動歩行」「静歩行」につながる話として捉えることができます。

 

「歩行」という行為がどれだけスゴイことなのか(というより、どれだけ環境との連続的な対話を必要とするのか)を知るためには、以下の動画を見ると理解できるでしょう。

 


How far are we from Terminator's killing robots ...

 

弱いロボット:66−67ページ

 自分の身体から繰り出す発話や行為なのに、その意味や役割を自分の中で完結した形で与えられない。私たちの身体に内在するこうした性質を、ここでは「行為の意味の不定さ(indeterminacy)」と呼んでみたい。 

 私たちはこの「不定さ」を自覚しつつ、その意味や価値をいったんは環境に委ねる。こうした振る舞いが「なにげない行為」となって現れるのではないのか。無意識に、あるいは自発的(spontaneous)に繰り出される私たちの行為の多くは、この「委ねる/支える」といった二つの振る舞いがいつもぴったりとくっついているようなのである。

 思い切って何かに自分の行為を委ねてしまおうという無謀ともいえる身体の振る舞いを、「投機的な振る舞い(entrusting behavior)」と呼ぶことにしよう。一方、そうした投機的な行為を支え、その意味や価値を与える役割を「グラウンディング(grounding)」と呼ぶことにしたい。

 この二つの関係は、はじめはギクシャクしながらも、しだいになじんでくる。ついにはどちらがどちらを支えているのかわからなくなってしまう。こうした連係プレーには、ある種の小気味よさがある。

 

上記引用のあとになりますが、人間の歩行というのは「地面が自分の足を支えてくれることを期待して不定な一歩を踏み出すことである」といった内容があります。まあ、これが動歩行の意味するところなのですが、自分自身に閉じた環境のままでは一歩を踏み出すことすらできない、ということです。

 

ケータイでの会話はなぜ煩いのか

隣り合う二人が会話をしている分には適当に無視できるが、ケータイでの会話になるとどうも腹立たしく感じる。この感覚は広く共有されていると思います。では、なぜこのように感じるのか。諸説あるらしいのですが、その一つとして上述の「投機的な振る舞いとグランディング」が当てはまるようなのです。

 

弱いロボット:89−90ページ

 そもそもどうしてケータイでの会話は煩く感じるのだろう。その周りにいる人を落ち着かない気分にさせるのはなぜなのだろう。いつくかの要因がありそうだ。

(略) 

 もう一つ、ケータイの片側だけの声は、いつも「不定さ」を伴っているためだろう。片側の発話の意味が不定なままで、いつまでも閉じていかない。耳に届いた声は誰からもグラウンドされることなく、いつまでも宙をさまよってしまうことになる。

 私たちは意味の真空状態を嫌う。意味の空白に対して、思わず補ってしまう。つまり、ただの傍観者であった周囲の人たちに、応答責任なり共犯性までも喚起させてしまうのだ。

 「あのさぁ、今度ね・・・」という発話に対して、周りにいる人たちは自分に向けられた発話ではないことを確認せずにはいられない。「へぇー、うそ!」「そうそうそう」、こうした発話のたびに、周囲の人はなんとなく落ち着かない気分を味わうことになる。これは単に声が大きいといった「煩さ」とは異質の、傍にいる者の思考をも止めてしまうような「煩さ」なのである。