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伊藤若冲と◯◯:ジブリ作品

伊藤若冲と◯◯:はじめに

伊藤若冲と◯◯:チームラボ

伊藤若冲と◯◯:ジブリ作品

>to be continued…

 

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1. 若冲の《五百羅漢

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若冲が下絵を描いて石工に彫らせたという石峰寺の《五百羅漢》。伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)という中国僧侶の菩堤を弔うために建立したとされています。晩年を石峰寺で過ごした若冲の墓碑はここにあります。若冲は1800年に亡くなっていますが、安永(1772~1780年)の半ばには造像に着手していたようなので、《五百羅漢》は後期~晩期の作品となります。

 

若冲は広大・雄大な景色を描くことよりも身近な自然物(動物・植物)に関心をもって観察し、それらを絵画作品として世に送り出していました。ここから私見です。若冲は周囲を取り巻く自然を決して「対象」として捉えることなく、それらを自身の内部に受け入れていたのではないでしょうか。距離が遠くて大まかな全体像しか掴めない自然を受けれることは困難です。しかし、いま目の前に存在している生命を自分自身と同列に考えて受け入れることは可能ではないでしょうか。そうした意識下にあったからこそ、繊細な動物・植物であってもその繊細さをそのまま表現することができ、他の画家とは異なる生命性とリアリティを作品の中に見出せるのだと思います。

 

2. 若冲の世界認識

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私見をだらだらと書きましたが、美術家である森村泰昌氏の解説に似たようなものがあります。実際に若冲の作品を紐解きながら解説されているため、納得感の強い論評であると感じます。「主役は存在しないんです。」というのは、作品の中に現れている動物・植物はもちろん、作者である若冲自身も主役ではないと考えられます。

 

異能の画家 伊藤若冲 96-98ページ:
(《南天雄鶏図》において、鶏冠/南天・耳/菊・脚/枝/地面・目/小鳥・羽根/葉、それぞれの描き方の類似性を指摘して)この絵からわかるのは、若冲さんのなかでは、動物と植物の間のヒエラルキーはないんじゃないか、ということ。全体を観ると鶏の絵ではあるけれども、抽象画と考えることもできる。主役は存在しないんです。ディテールを見ていくと、みんな一緒。それが若冲さんの宇宙観なんですよ。汎神論に近いんじゃないかな。仏さんやお釈迦さんだけでなく、動物や植物、森羅万象にありがたいものが宿っているという考え方をしていたのかも。

 

先月、実際に石峰寺を訪ねて《五百羅漢》を拝観しました。近くに伏見稲荷があるためか観光客も少なく、《五百羅漢》に包まれてみました(実際に五百はなかったと思いますが)。その空間において自分と自然・石像は同列というより、むしろ、自然と石像に圧倒されてしまい、歩を進めることに躊躇してしまいました。石峰寺を訪ねた後に若冲本を読み、自分の感覚は至極まっとうなものかもしれないと思えました。あくまでも、これは個人の感性の問題として記載します。ちなみに、《五百羅漢》の撮影は禁止されているのでご注意ください。


3. ジブリ作品との共通項

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五百羅漢》を初めて見たときに真っ先に思い浮かんだのが、「もののけ姫」の木霊の存在でした。その容姿と雰囲気、周辺の自然環境を眺めながら、両者のつながりを強く感じました。また、「千と千尋の神隠し」の最初と最後に登場する石像ともかなり近しい印象を抱きました。作品の制作過程においてなにを参考にされたのかはわかりませんが、どうしても繋がりを感じてしまいます。

 

宮崎駿氏の世界認識・作品への思想については、別稿で触れていきます。宮崎氏へのインタビュー集「風の帰る場所」の中に世界観を垣間見える記述がいつくもありました。そのキーワードは「世界をうけいれる」です。

 

4. 文献

異能の画家 伊藤若冲 (とんぼの本)

異能の画家 伊藤若冲 (とんぼの本)